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3.1独立運動100周年(3)
独立を求めた東学農民戦争

東学農民革命勝利の地記念碑
=2019/03/02、井邑市黄土峴
東学農民革命記念館入口
=2019/03/02、井邑市黄土峴
竹で編んだ鶏小屋を活用して戦う東学農民軍
=2019/03/02、井邑市黄土峴
井邑市に建つ少女像
=2019/03/02、井邑市・
ジヨンアートホール広場
全州で生まれた名物のビビウンバ
=2019/03/02、全州市
全州府城の陽南門と少女像
=2019/03/02、全州市・豊南門広場
民俗衣装で韓屋村を歩く人達。若い人が多い
=2019/03/02、全州市
 3月2日、ソウル市から急行列車(KTX)で全羅北道(チョルラプクト)の井邑市(チョンウプし)と全州市(チョンジュし)へ行きました。
 天気は晴れで、暖かでした。
 両市は、韓国南西部の黄海沿岸の湖南平野に位置します。湖南(ホナム))平野は、かんがい用水が古くから整備され、韓国最大の穀倉地帯です。
 日本の植民地時代には、群山市(クンサンし)の 港から日本へ大量の米や大豆が積出されました。
 参照 http://takeda-a.net/a-korea18-10-04
 午前9時50分、最初の訪問地の井邑駅へ着きました。ソウル市の竜山駅を8時20分に出たので、1時間半の車中でした。車窓の景色は、薄霧でかすんでいました。
 目的の東学農民革命記念館へ行くと、館員が日本から来たことを知り、歓迎されました。
 私は、見学者帳に氏名と「祝 独立宣言100周年 式典参加」で訪韓した旨を記帳しました。
 東学農民革命は、朝鮮王朝の地方役人が農民などに対する人権差別と、極端な収奪に反対して戦い、一定の勝利を得ました。
 そして、その後は日本の植民地支配に反対し、独立運動をすすめたのです。それが、その後の3.1独立宣言へと引き継がれました。
 また、日本でいわれる日清戦争の主要なことは、朝鮮の自主・独立と人権の平等を求める東学農民軍との戦いだったことも知りました。日本は、朝鮮の独立運動を徹底的につぶしたのです。
 東学農民蜂起の直接の発端は、新任役人がかんがい用水施設を必要以上に造り、過酷な水利税を徴収したことからいわれます。
 その農民の武装蜂起地が井邑市の古阜面で、最初に勝利した戦場地が、徳川面の黄土峴(ファントヒョン)です。戦場跡地に黄土峴戰蹟地碑があり、一部が公園となって東学農民革命記念館があります。
 記念館には、子ども展示室や教材もあり、興味深く見ました。上から2枚目の写真は、竹で編んだ鶏かごに藁を詰め込み、銃弾の防御や火をつけて転がし、悪代官兵を攻めた絵で、分かりやすいです。
 東学の教えは「万人平等、国の自主自立、革新の志、財のある人は貧者に援助する」などのようです。
 一般的には、「人は天 みんな平等」(人間らしく生きる世界)めざすと、いわれていました。
 当時の朝鮮は、500年続いた李王朝の科挙制度疲労・堕落と地方役員の過酷な年貢取り立て、イギリスをはじめとする欧米列強などのアジア進出の激しさがありました。
 そのようなことから、朝鮮の風土が育んだ独自の東学思想が生まれたといわれます。単に、西洋のキリスト系思想に対する、東洋の思想ではないようです。
 革命記念館を後に。井邑駅と市役所の間にあるジヨンアートホール広場(映画館CGV前)で、少女像を見ました。こちらは立像で、こぶしを握っており、農民民主革命の故郷にふさわしいと感じました。
 美学者の柳宗悦氏によれば、「朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情に憧れ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである(週間金曜日2019年2月22日号掲載より)」、と評価してありました。
 この文を読んだとき、私がソウルで少女像を見たときや、その他のレリーフなどを見たて感じたことを、ピタリと表現していると思いました。
 昼食は、全州市でビビンバを食べました。
 湖南地帯は、農産物、黄海の海産物、山菜の宝庫で、全州市はビビンバの発祥地です。
 同行の3人(ガイドさんを含む)は、短時間で完食しました。くどくない味で、美味しかったです。
 石焼きビビンバは、ソウルなどで流行したそうで、食材の流通に時がたち、石焼きにしたのでしょうか。
 昼食後、全州市の豊南門を見学しました。
 豊南門は、かって全州府城にあった東西南北の4門のうち、唯一残っている門です。現在の姿は1978年に復元されたものです。豊臣軍がこの門を破壊して城内に侵入したともいわれています。
 門前では、若い人たち自撮りで賑わっていました。そして広場には、椅子に座った少女像がありました。
 全州市は、全羅北道の中心都市です。
 現在の観光スポットは、韓屋村でした。
 民俗衣装のチマ・チョゴリのチマの裾を、丸く膨らむ広げたファッションが、流行していました。
 数年前からだそうです。安価な貸衣装で、若いカップルや外人に人気だそうです。
 通りの古民家も商店化しており、歴史の面影がうすれていました。
 おでんや、冷菓の店は、客が並んでいました。それを食べながら歩き、お祭りのようでした。先月に訪れた、新大久保のコリアタウンを思いだしました。
 韓屋村の一角にある東学革命記念館は、臨時休館の張り紙で、見学できませんでした。
 3連休のなか日(土曜)で、臨時休暇にしたようです。ガイドさんは、事前に開館を確認したのですが、何ともなりません。
 それで、南部市場へ行きました。
 地域の人が利用する市場は、どの国で見学しても楽しみです。日本で見たことのない野菜、果物、海産物などが、豊富で安価に売られ、目を肥やすだけども興味津々です。お土産に、蜂蜜、タコのキムチ漬、味付けしないノリなどを買いました。
 今回の旅で強く感ずることは、日韓関係のギクシャクです。その要因は、戦後の両国間に関わる取り決めで、サンフランシスコ平和条約や日韓基本条約が、日本の植民地支配に真摯に触れずにきたことです。それが、慰安婦問題や、徴用工問題に現れていると思います。この問題は「解決済み」ではなく、未解決なのです。
 今日の世界のすう勢は、宗主国の植民地問題を過去(文明化や近代化に貢献したとする認識)のこととする「合理化」を許さず、再考する流れに発展しています(2001年ダーバン宣言)。日本政府や一部マスコミは、「解決済み」「条約に反する」と声高々ですが、溝が深まるばかりで、真の解決、真の友好にはなりません。日本政府は、植民地支配の出来事に真摯に向き合い、両国の話し合いを通して、真の友好をすすめるべきと思います。

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