朝鮮通信使 対馬 壱岐 唐津

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朝鮮通信使 足跡の旅
対馬・壱岐・唐津

韓国と対馬の共同で1992年に建立された朝鮮國通信使之碑
=2016/11/25、対馬市厳原町
「誠信之交隣」雨森芳州先生顕彰碑
=2016/11/26、対馬市厳原町
対馬を二つの島に別けた境界の万関瀬戸。万関橋より東側の三浦湾を望む
=2016/11/26、対馬市美津島町
原の辻一支国王都復元公園の物見櫓前でツアーの人たちと記念撮影、筆者(後列右)
=2016/11/27、壱岐市芦辺町
円形古墳の掛木古墳
=2016/11/27、壱岐市勝本町
名護屋城の天守閣跡から玄界灘を望む。遠方が加部島。中央の陶器製の図板は陣跡の方向を示す案内図=2016/11/28、唐津市(旧鎮西町)
 2016年11月25~28日、室町時代から江戸時代にかけ、日本と大陸・朝鮮の人的、交易、外交の懸け橋となった「朝鮮通信使の足跡を訪ねる旅」に参加し、長崎県対馬市と壱岐市へ行きました。
 但し28日は、豊富秀吉の朝鮮侵略戦争出撃地の佐賀県唐津市の訪問です。
 先ず、対馬でビックリしたのは、韓国からの観光客が多いことです。朝鮮通信使の遺跡見学と買い物ツアーだそうです。買う物は、人気の生活用品が多いそうです。対馬は、九州へ(約100㎞)行くより、朝鮮半島へ(約50㎞)行くが方が近く、韓国の釜山(プサン)と結ぶ航路は、ジョット船で1時間余りで着きます。古代から、大陸・朝鮮半島と、対馬・壱岐・九州ルートは、人事交流や交易の主流でしたが、かっては、何日もかかる決死の覚悟だったでしょう。現代の安全とスピード化は、比較になりません。
 対馬の面積の89%が山林(市のホームページより)で、農業に適さず、漁業や大陸・朝鮮半島などとの交易の中継に頼ってきました。そのようなことから、争いごとをさけ、友好の精神で人的、学術、文化などの交流や、交易の要所として栄える道を選びました。その歴史が、日本と朝鮮間の対等友好の外交使節団が、朝鮮通信使でした。
 対馬訪問では、「朝鮮通信使之碑」(写真上段)や、「誠信之交隣(互いに欺かず、争わず、真実を以て交わる)」碑(写真上から2段目)、などを見ることができ、その一端を知ることができました。
 ところが、江戸幕府末期になると、諸外国の開港強要と相まって、王政復古、征韓論の思想が台頭して、明治政府は朝鮮民族や中国民族などを蔑視し、朝鮮半島の植民地化や、中国の東北地方(旧満州)を支配します。そして、侵略戦争をアジア・太平洋へと拡大・強行したのです。
 対馬は、軍艦や砲台を配備した要塞となりました。
 その強化策として、対馬の中央部西側の浅茅(あそう)湾と、東側の三浦湾をつなぐ海の運河を掘り、万関瀬戸(まんぜきせと)を完成(1900年)させました。浅茅湾にある海軍基地の艦船を、短時間で西の海から東の海へ通航させるためです。万関瀬戸の位置は、対馬の中央部よりやや南の東部で、両湾(海)が接近している所です。長さ500m、幅40m(旧25m)、水深4.5m(旧3m)です(写真上から3段目)。1905年の日本海海戦では、万関瀬戸を水雷艇隊が通航し、ロシアのバルチック艦隊を破るポイントになりました。その運河を境に、北部を上島、南部を下島と呼ばれています。運河には、現在、3代目の鉄橋の万関橋(1996年)が架かり、国道382号線が通っています。
 なお、万関瀬戸より南へ2kmに、1672年に掘られた漁船通航用の運河の大船越瀬戸があります。
 私は、対馬を分割した運河を是非とも見たかったので、26日の早朝の6時過ぎ、ツアー合間に予約のタクシーで現地へ行きました。宿から、15分ほどで着きましが、関東より夜明けが遅いので、両湾が見える万関展望台で日の出を待ちました。運転手のガイドで、万関瀬戸と大船越瀬戸を詳しく見学することが出来、満足感に浸りました。
 27日は、壱岐市の原の辻一支国(いきこく)王都復元公園(弥生時代)、一支国博物館、古墳群(古墳時代)、黒崎砲台跡などを見ました。壱岐は、対馬と対照的に平野部が多く、稲作が成り立ちました。田圃の跡地や、海路から内陸部へ船で、交易品などを搬入送した河川や運河の船着き場(東南アジア最古)や遺物が発掘され、大陸と日本列島を結ぶ物流の拠点だったと知りました。
 原の辻一支国王都復元公園では、大規模な王国の様子を知ることが出来ました。登呂遺跡、吉野ヶ里遺跡、原の辻遺跡は、日本の3大遺跡だそうです。
 王や有力者の墳墓は、円形の盛り土で、韓国の慶州で見た古墳群と似ていました。
 27日は、佐賀県唐津市にある名護屋城跡などを見ました。豊富秀吉は、日本国内統一(1590年)の前後から、朝鮮半島や中国・アジアを支配しようとしました。
 その実行の出撃拠点が、唐津市の名護屋城でした。城の周囲3㎞圏内には、各藩大名の陣が130ヶ所以上あったと言われますが、現在は城も陣も、上物がありませんでした。当時は、ここから朝鮮(1592~)へ、20万人(文禄の役)とも言われる兵士が海を渡って行きました。そして、在陣兵が10余万人いたと言われます。
 朝鮮へ渡る1回当たりの人員は、1万4、5千人位だようです。その船団は、数100艘を要したそうです。
 船団には、水軍などからの徴用船や、各大名に建造させた船もあったようです。それらは、最終的に対馬へ終結して渡航しました。唐津の造船所跡を見たかったのですが、残っていないとのことでした。
 朝鮮戦争は、1598年に秀吉の死没で終わりました。戦争は、朝鮮の非戦闘員にも残虐な行為を行い、数万人の捕虜を日本各地へ移送しました。
 秀吉の朝鮮出兵により、朝鮮通信使は途絶えました。その後、江幕府に替わった家康は、和解して捕虜をかえ(約7千人)し、朝鮮通信使の交流を再開(1607年)しました。この間、20年足らずのことでした。
 江戸時代には、幕府の代替わりなどを機会に、朝鮮通信使が12回行われました。ソウル(漢城)から江戸まで2000㎞、300~500人位の規模で、往復に6ヶ月前後を要しました。当時としては、現代のオリンピックを越える、超国家的なイベントだったと思います。朝鮮通信使随員の中には、技術者や学者が含まれ、帰国せず日本に残り、相互の工芸技術や学問の普及・発展に貢献しました。
 明治、大正、昭和の明治憲法時代は、対等で友好な交流が、日本と大陸・朝鮮半島間にあったことが忘れ去られ、あるいは意図的に否定され、日本は侵略戦争に突き進みました。日本と、アジア・太平洋の国民に、筆舌に語れない多大な被害と加害を強行しました。
 戦後、70年過ぎても、日本政府は朝鮮通信使の精神「誠信之交隣」に、立ち返れないようです。北朝鮮とは、国交さえありません。
 いまこそ、朝鮮通信使の精神を含んだ現憲法の精神、特に9条を生かした外交に徹すべきです。

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