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遠くて・近い 千島列島 (1) | |||||||||||||||||||||||||||
色丹島 出身者に聞く | |||||||||||||||||||||||||||
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千島列島(極小島を除く) | |||||||||||||||||||||||||||
早朝に自宅を出発し、空路で羽田から釧路へ行き、釧路から鉄道で根室市へ向かいました。昼過ぎ、根室駅に着きました。 今回の旅は、「北方領土問題と日ロ関係・平和を考える~」(主催神奈川県日本ユーラシア協会)のツアー参加です(4名)。 午後、市内の道立北方四島交流センターで、色丹島生まれの得能宏さん(89歳)から、色丹島での生活や、島を追われた後の生きざまを聞きました。 得能さんは、小学5年生の時に終戦を迎え、その後にソ連軍が侵攻して来ました。当時は、米軍が攻めてくると思っていたので、ビックリしたそうです。 それまでの生活は、海獣の狩猟や漁労が主で、クジラが年間200頭も獲れたそうです。本土から移住した人達が2,000人ほど住む、宝の島だったと言います。得能さんの祖父母の出身は、富山県の黒部で、根室に入植後、色丹島へ移ったそうです。 ソ連軍侵入後は、殺戮や略奪があり、やがて軍人の家族や一般人が来て、母屋を取られ、日本人は小屋などに住んだそうです。 反面、ソ連軍の抑圧下でも、両国の子どもやお母さん、お婆さん達は仲良くなり、子ども達は一緒に遊び、学校へ通ったそうです。 2年後(中学1年)、「日本へ帰れ」と言われ、サハリンで2ヶ月ほど収容され、厳しい生活を強いられ、函館経由で根室市へ着いたそうです。千島列島やサハリンに住んでいた日本人のソ連軍侵攻後の体験は、家族や知人との死別の悲しみや、恐怖のどん底だったようです。 得能さんは、最後に「孫の代、ひ孫の代にかかろうが、100年、200年かかろうが、生まれた故郷を取り戻したい」と問いかけました。 また、得能さんの初恋の人は一緒に遊んだロシア人のターニャ(愛称)だそうです。そして、色丹島とへの墓参訪問交流を重ねる中で、ロシア人の青年を得能さんの息子にする約束をしたそうで、両国民の友好・親善を強調されました。 私の父は中国で戦没しました。残された母子5人の食べる物が無い、ひもじかった思いから、ソ連軍が入ってきた後「何を食べていましたか」と聞きますと、色丹島に駐留していた「日本軍人の米や缶詰などが3年分残っていた」ので、食べる物はあったと言われました。北方の軍隊は、4年分の備蓄が方針だったようです。話しは弾み、予定の1時間を遙かに越えました。 |
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