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シベリア出兵100年 |
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① ウラジオストック | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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訪問を思い立ったのは、第1次世界大戦中の1917年11月(旧暦10月)、ロシアで労働者・農民の革命政権が生まれました。それに干渉する日本、アメリカ、カナダ、イギリス、イタリアなど7か国軍が、翌1918年にシベリアに出兵し、今年が100年目になるからです。 出兵は、日本7万3千、アメリカ8千、カナダ4千、イギリス1千5百、イタリア1千4百などで、ウラジオストックから上陸しました。 理由は、ロシア革命で圧迫されたロシア人支援と、第一次世界大戦でロシアの捕虜となっていたチェコ軍兵士をウラジオストックから海路でヨーロッパに移送する過程で革命軍との衝突に対処することなどでした。 日本軍出兵の桁違いは、旧満州地域(現中国東北部)の利権拡大・強化、領土獲得の野心があったからです。 他の国軍は、チェコ軍兵移送が終わった翌1989年に撤退しましたが、日本軍の撤退は1922年でしから、その意図が明らかです。 日本軍は、ウスリー川、アムール川の水路などを利用し、イルクーツク方面まで侵攻しました。その過程で、アムール州の州都ブラゴベシェンスクから東へ数10㎞離れたイワノフカ村では、日本兵が子どもを含む無抵抗の住民数百人を虐殺しました。 そのイワノフカ村訪問も、今回の旅の目的でした。 24日、ウラジオストック市レニンスキー区の市街地見学、ルースキー島の砲台見学、ピェルヴォマイスキー区の海岸墓地訪問などを行いました。 市街地見学では、旧松田銀行(1907年開設)、旧日本総領事館(1909年開設)、旧横浜正金銀行(1918年開設)、旧堀江商会(1899年)などの現存建築物を見てまわり、他の目的に利用されていることを知りました。 その他、その時代のヨーロッパ風の建物がほとんど現存しています。それぞれ1世紀になる建築物ですが、保存・管理が良く当時をイメージしました。 旧横浜正金銀行(ウラジオストック支店)は、沿海地方アルセーニエフ記念総合博物館に利用されていました。 なお、旧横浜正金銀行の本店は、横浜市中区の神奈川県庁の近くにあり、現在の神奈川県立歴史博物館です。 両方とも似たような造形で、威風ある建物です。横浜市に住む私としては、たいへん興味がわきました。 横浜正金銀行は、のちに東京銀行にかわり、現在の三菱東京UJF銀行に引き継がれています。 ウラジオストックと交流・交易が盛んになったのは、1855年の日露和親条約(1855年)に基づき、1871年に長崎~ウラジオストック海底通信ケーブル開通(日本初の国際通信開始)、1981年に長崎~ウラジオストック定期航路開通などがあり、中国東北部などとの物資移動の要所とだったからです。 1919年ころは、邦人6千人が住んでいました。 ルースキー島の砲台跡見学では、ルースキー橋たもとにある現物の大砲7門を展示保存しているのを見ました。地下は弾薬庫になっています。沖をにらむ威圧を感じました。日露戦争以前に築かれたといいます。 ルースキー島は、ムラヴィヨフ半島(ウラジオストックの中心部が位置する半島)南端ピェルヴォマイスキー区の先にあり、ピヨートル大帝湾の中央部です。 島は入り組んでいますが、ほぼ四角形で1辺が15㎞ほどです。大きな入り江もあります。要塞にはもってこいです。案内地図を見ると、島の海岸360度に砲台跡が64か所もありました。 ムラヴィヨフ半島とルースキー島の間には、世界最大といわれる斜張橋(橋脚間1104m、2012年完成)が架かっています。ここに、世界最長の斜張橋があるとは知らず、たいへん驚きでした。 走って渡ってみたいが、歩道のない構造でした。 ルースキー島に巨大な橋を架けたのは、手狭になった金角湾に次ぐ、港を造るのだろと思います。東南アジアとヨーロッパを結ぶ、北極海航路のハブ港を目論んでいるのでしょうか。 島では、大規模な開発工事は見当たりませんでしたが、沖には数隻の大型コンテナ船が停泊していました。 海岸墓地(モリスコエ・クラドビシェ)は、市民墓地になっておりますが、前面はロシア海軍墓地を主とする記念碑や墓地でした。それに続き、シベリアシ出兵時の各国の軍人墓地が配置されていました。 日本人墓地は、遺骨が日本へ戻ったそうで、荒れ地のようになっていました(写真4段目)。正面に「日本人埋葬碑」があるだけです。 日本軍人墓地の他に、カナダやチェコなどがありました。チェコ墓地は大きなモニュメントと兵士一人ひとりの石碑が並んでいました(写真5段目)。あまりにも日本人墓地と違い、チェコ政府の取り扱いに驚きました。 かって、カザフスタンのアルマトイで日本人抑留者の墓地をみたとき(1997年)、隣の英連邦軍の墓地は兵士一人ひとりの碑が並んでいました。日本は、流しコンクリートの枠があるだけで、故人名は番号と照らし合わせて知るようになっていました。国の取り扱いの違いに、愕然としたことを思い出します。 |
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