静岡市興津で 朝鮮通信使行列再現

☆HOME  ☆7大陸を走る  ☆著書注文  ☆著書外マラソン  ☆平和行進日誌一覧  ☆日誌検索  ☆平和行進十話  ☆平和への旅一覧↑まえ ↓つぎ ☆リンク
 
 
韓国ピース・ツアー()
⑥ 静岡市興津で 朝鮮通信使行列再現

朝鮮通信使の再現行列=2018/10/14、静岡市清水区興津・東海道
会場へ向かう小・中学生や子ども
=2018/10/14、静岡市興津
正使を乗せた駕篭=2018/10/14、静岡市興津
釜山市の演舞団の伝統打楽器演奏=2018/10/14、静岡市興津
釜山市の舞踊団の踊り
=2018/10/14、静岡市興津
国書を伝達する正使(中央)
=2018/10/14、静岡市興津・清見寺
国書伝達の祝宴で楽団の演舞
=2018/10/14、静岡市興津・清見寺
 10月14日、静岡市清水区の興津で開かれた、朝鮮通信使の再現行列を見学しました。
 主催は、静岡市清水区のNPO法人「AYUドリーム」です。
 行列は、11時にJR興津駅から出発し、東海道(旧国道1号線)を下り、1㎞ほど先の清見(せいけん)寺迄歩きました。清見寺は、朝鮮通信使の宿泊場所になった所です。
 参列は、韓国の釜山市から正使や、同市からの楽団(6人)、民俗舞踊団(9人)の人たちと、興津の小・中学生(約60人)を含む総勢150人です。
 朝鮮通信使のプラカードを先頭に、鳴りものの楽団、舞踊団、国書の入った駕篭、正使の駕篭、副使、従事官等々の集団が練り歩きました。
 前方で、楽団が鳴らすラッパ、鉦、太鼓の音も賑やかで、大きな興奮を覚えました。
 行列は、当時の服装と行列順にちかい、復元だろうと思います。
 実際の規模は、朝鮮から500人前後の人が来られ、それに日本の役人や警固人、物資の運搬人など、総勢千人を超える大行列だったようです。見物客の前を通過するのに1時間くらいかかったでしょう。
 当時の人たちが、どれほど興奮しただろう、と想像がつきました。
 行列再現の動機は、NPOの有志が朝鮮通信使の史実を知り、学習を重ね、学んだことを「子どもたちに語り継がなくては」と思い立ったことです。
 2007年に、チマチョゴリ風の子ども向け衣装を手作りし、約40人の小中学生の行列が、今日に発展したのです。この活動も、最近はインターネット上で中傷されることがあるそうですが、「家康や通信使の交流史から、何かを感じてほしい」と願っているそうです。

 朝鮮半島の人たちは、豊臣秀吉の侵略戦争で、大きな国難を強いられ、その上、明治後期から36年間も日本に植民地支配されました。
 今回の旅でも、その痕跡をたどりながら、朝鮮半島の人たちに与えた屈辱と建物破壊の経過、犠牲者の慰霊苑見聞などで、それらを後世に伝えるために心魂を注いることがわかりました。
 そして、破壊された建物などの復元のエネルギーと、日本と真の親善友好を望んでいることを知りました。
 日本は、日本が起こした侵略戦争を本当に反省し、真摯に向き合い、朝鮮通信使の時代のように「誠信之交隣」の精神で国交を行うべきだと思います。
 参照 takeda-a.net/a-tushinsi-16-11

 徳川家康は、豊臣秀吉が没(1598年)した後、10年足らずで朝鮮通信使を再開(1607年)しました。
 現世は、戦後73年たっても、日本と朝鮮半島はギクシャクが続いています。北朝鮮とは国交がありせん。
 現憲法ができても、サンフランシスコ条約のアメリカ主導体制に、日韓ががっちり押さえ込まれているからだと思います。
 徳川家康は、秀吉の朝鮮出兵に兵を出しませんでした。秀吉を本国で守るためとの理由で、佐賀の名護屋城の徳川陣屋に2万人の兵がとどまり、無傷だったのです。
 私が思うには、朝鮮出兵は日本にとって損失が大きいと計算したのでしょう。家康が天下をとると、秀吉の侵略の非を認め、捕虜を帰し、国交回復と朝鮮通信使の再会に尽力しました。
 家康は、朝鮮以外にも、オランダ、イギリス、スペイン、明(中国)、フィリピンなどとも積極的に交流を持ったと言われます。家康外交のブレーンが、英国人のウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)です。家康は各国の情勢を知り、江戸幕府のかじ取りをしたのです。アダムズは、徳川の家臣となって神奈川の三浦郡逸見村(現横須賀市)に250石の領地を与えられました。その地に、安針塚とよばれる夫妻の供養塔(国の史跡指定)があり、現在、京浜急行電鉄の駅名にもなっています。
 
 江戸幕府から明治政府にかわった時期に、廃藩置県で朝鮮との国交窓口が対馬藩から明治政府にかわりました。その取り扱いをめぐり、朝鮮側から国交に不穏が生じました。
 その正常化を目指して、明治6年に西郷隆盛を訪朝させる閣議決定がありました。
 ところが、外遊(岩倉使節団)から帰国した大久保利通や伊藤博文は、芽生えた法冶主義を否定するクーデタ的な行為に出で、西郷の訪朝を中止させました(明治6年の変)。西郷は憤慨し、辞表を提出しました。その後の明治政府は、天皇中心の政治になり、侵略戦争と植民地支配にすすみました。
 戦後73年、安部首相は権力を集中し、明治6年の変と似たような憲法否定で、軍国主義復活をすすめようとしています。
 憲法9条に自衛隊を明記し、日本が再び戦争する国になることを、国民は絶対に許してはなりません。

☆HOME  ☆7大陸を走る  ☆著書注文  ☆著書外マラソン  ☆平和行進日誌一覧  ☆日誌検索  ☆平和行進十話  ☆平和への旅一覧↑まえ ↓つぎ ☆リンク
  copyright(c) takeda akihiko all rights reserved.