反核平和マラソン(12)
被爆50周年記念・反核平和マラソン
東京~長崎1500㌔ (#12)8月08日(火)
福岡→長崎(170㎞)
久留米市の中継所
=1995/8/08、福岡県久留米市
武雄市を走る
=1995/8/08、佐賀県武雄市
大村市役所前を走る
=1995/8/08、長崎県大村市
間の瀬峠の上り坂
=1995/8/08、長崎市
長崎平和祈念公園へゴール
=1995/8/08、長崎市
歓迎夕食会で乾杯の音頭を取る竹田
=1995/8/08、長崎市
間の瀬峠を越えと長崎だ!
最終日、今日も170㎞の長ちょうばです。
朝5時、全員で福岡市の平和台競技場前からスタートしました。
国道3号線を南下し、佐賀県の鳥栖市で国道34号線の長崎街道に入ります。
東京を出てから12日目、疲れが溜り速いペースで走れなくなりました。
とくに、朝のペースは速いので、ほとんど出番がなくなりました。
ハブニングがありました。佐賀市のバイパスで、ランナー移動用のバスが中継所を出ようとしたら、米長さんと岡山から加わった西田さん(滋賀)がいないのです。付近を探すが見当らず、心配しました。
もしかして、「勝手に走って行ったかも」と判断し、発車しました。
案の定、次の中継所の手前を走っている2人を見つけました。「黙って行っちゃ困る」とったら、「チョッと走ってみたら気分がよかったので」、との弁でした。集中力が、緩慢になっていたのです。
武雄市を過ぎてから、また、心配が起きました。
佐賀市でバスに着替えを預けた地元のランナーが、2区間(9㎞)走ったはずなのに、バスへ戻って来ないのです。
他の車で走ったコースを戻り、探しても見つかりません。探す方法がなく困っていると、交番から電話があり、助けを求めていました。
当人は、20数㎞も走ってからコースの間違いに気づいたそうです。
原因は、集団走から外れたことですが、気分が乗って距離感覚が薄くなった様子でした。
予想外のことが起きるものです。
大村湾の海岸線を走ると、炎天下の入道雲の真白さと対岸の山並み、よい景色です。また訪ねて見たいい気分になりました。
大村市役所で休息していると、長崎市役所職員でつくる「桜町走友会」のランナーが大勢やって来ました。「反核平和」と書いた自作の上り旗を背負った中年のランナーもおりました。
速いペースですすみましたが、なんとか追いつて行くことが出来ました。
諫早市から長崎市に入る難所に、間の瀬峠があります。この峠のことは、山口県の防府の宿で「広島~長崎」間を何回も走ったランナーから、難所を走りきった自慢話を聞いていました。
私は、間の瀬峠を元気で越えることが「東京~長崎1500㎞」の結実になると理解しました。
同行の子どもたちを含め、全員で挑戦することになりました。
峠を見上げると、ヘアピンのカーブがくっきり見えます。上り口から、速い人も遅い人も一斉に走り出し、全員が頂上までの3㎞を走り、息を弾ます笑顔がとても素敵でした。
峠を下って集落に入ると、2階の窓などから「ご苦労さん」と手が振られ、行き交う車がクラクションをと鳴らします。
地本の人たちは、毎年この時間にランナーが来ることを知っており、共感しているのです。
これまでにない感動で、「長崎に来た」との実感が込み上げてきました。
終点が近づくと、外国のテレビカメラも見え、走る姿を追っていました。
夕闇せまる6時32分、「歓迎!」の横断幕の張られた平和祈念像公園脇の公民館に到着しました。
「やったぞー!」、「お疲れさまー」の声が飛び交い、東京から一緒の米長さん、伊藤さん、私の3人は喜びの握手をしました。
無事に長崎へ着き、達成感に浸りました。
夜は、長崎県原水協などの方々の厚意により、歓迎夕食会を中華料理店で盛大に開いて頂きました。
私は円卓を回りながら、紹興酒で感謝の乾杯を重ねて喜びました。
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