反核平和マラソン(10)
被爆50周年記念・反核平和マラソン
東京~長崎1500㌔ (#10)8月06日(日)
広島→防府
(140㎞)
ヒロシマ平和マラソン大会で紹介される反核平和マラソンのランナー
=1995/8/06、広島市広島城
タスキを関東勢から関西勢に引き継ぐ
=1995/8/06、広島市平和記念公園
原爆犠牲者に黙祷を捧げる
=1995/8/06、広島市平和記念公園
広島平和記念公園をスタート
=1995/8/06、広島市
防府市役所へ到着。右端が貞永信義さん
=1995/8/06、山口県防府市
ヒロシマ平和マラソン
毎年、原爆が投下された6日の早朝7時から、広島城の周囲を走る「8・6ヒロシマ平和マラソン大会」が開かれています。関東勢は、この大会に参加しました(2周の部3.2㎞)。
参加者の多くは小・中学生でした。
開会式は、原爆の投下された経過、被爆の悲惨さ、平和の尊さを語る年配の方の話で始まりました。若い人々に、平和の尊さを伝える熱意がジーンと伝わってきました。
そして、私たち一行が紹介されました。
広島城を2周走り終わると、急いで広島平和平和公園へ歩いて行きました。
公園正面の噴水前では、8時前から「被爆50年・核兵器廃絶・スポーツは平和とともに」のタスキを関東勢から西日本勢に引き継ぎ、出発式が開かれました。関東勢の8人と涙の別れとなりました。
気丈夫な藤本さんも泣いていました。
8時14分、被爆時間を知らせる鐘の音を合図に黙祷しました。
黙祷が終わると、直ちにスタートです。
長崎まで500㎞、3日間で走ります。
この広島~長崎500㎞を1886年からはじめ、9回続けているのが、福岡市職労や北九州市職労、新体連・福岡、国公などの方々です。
なお、発祥は1983年の福岡~長崎コースでしたから、彼らは13回目の挑戦です
運営は、たいへん手慣れたもので、給水場所や昼食の店も定番になっており、専属の女性アナウンサーが3人もいるのです。チーフアナウンサーは、声の通るベテランで、どっしり構えたお姉さんという感じでした。
びっくりしたのは、小・中学生数名も一緒に行くというのです。親が同行していない子(長崎の世界大会で合流)もおり、マラソンの旅を楽しんでいるようでした。
これまでは、誰がどの区間を走るか、バスに乗るか、昼食はどうするのか、その日、その時にならないと、と分からないことが多々ありましたので、たいへん参考になりました。経験の蓄積は、凄いと思いました。親なしで、子どもだけを連れて行くとは、考えられないことでした。
国道2号線は、広島市を出ると瀬戸内の海岸線を走ります。左手に宮島が見え、間もなくして山口県に入りました。
ゴールの防府市に近づくと、60年代のマラソン界で活躍した貞永信義さんがゲストで走られました。
貞永さんは、最近まで鐘紡陸上部の監督をされており、伊藤国光さんなどを育てました。
貞永さんは、16歳のとき、8月6日に広島の方からわき上がってくる原爆雲を見たそうで、「原爆は人道的にも許せない兵器で、なくさなければならない」と話しました。
この「東京~長崎1500㎞」には、君原健二さん(1968年メキシコオリピックのマラソン銀メダル)、増田明美さん(1984年ロスアンゼルスオリンピック女子マラソン出場)、丘みつこさん(女優、マラソン愛好家)などからメッセージを頂き、ランナーたちを励ましました。
防府市役所へ着くなり、クラッカーが弾け「パーン!・パーン!」と弾け、細いテープが舞いました。
これまでに勝る大歓迎です
宿は、市街地から離れた「玉泉湖温泉」で、大広間を借りきっての焼肉パーティーでした。
約60人が温泉に入って、焼き肉をタラフク食べて、飲んで、歌って、踊ってと、面白さに圧倒されました。
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