反核平和マラソン(9)

被爆50周年記念・反核平和マラソン

東京~長崎1500㌔ (#09)8月05日(土)

三原→広島(90㎞)

東広島市役所へ到着=1995/8/05
女性が先頭で力走=1995/8/05、広島市
歓迎式で挨拶する鈴木紀子さん
=1995/8/05、広島市
広島平和公園へ到着=1995/8/05、広島市
己斐幼稚園でくつろぐ=1995/8/05、広島市
  いよいよ広島 涙とまらず

 朝7時30分、三原市役所に集まり打合せをすると、今日のゲストランナーに、東京都職員でマラソンを3時間以内で走る鈴木紀子さんの参加が知らされました。
 そして、明日は、広島市で開かれる原水爆禁止世界大会に参加するそうです。
 女性たちは大喜びで、鈴木さんと一緒に写真を撮ったり、同じ区間を走ったり、たいへん賑やかでした。
 広島のコースは難所が多く、本郷町の日名内峠や、竹原市の田万里峠など、アップ・ダウンとトンネル通過を繰り返しました。
 そのうち、広島市が近づき、最後の区間を走りだすと、沿道の人々の声援が多くなり、感情が高まってきてました。
 「広島に着いたのだ」と思った瞬間、涙が出てきました。
 被爆者の悲惨さと、自分の戦後のひもじかった生活が重なり、涙を抑えることが出来ません。
 午後3時、広島平和公園の2階廊下風な原爆資料館に掲げた「広島市原爆死没者慰霊式・平和記念式」が見えるてくると、ランナーたちは一斉に歓喜の声や手を振りかざし、出迎えの人々の拍手でゴールしました。
 公園には、原水爆禁止と平和を求める諸団体の人々や個人が大勢おり、強い印象を受けました。
 予定より到着が早かったので、宿舎の西区の己斐幼稚園近くの銭湯でゆっくり汗を流しました。
 幼稚園は寺の境内にあり、その広場で東京から走って来た関東勢と、長年広島~長崎1500㎞を走ってきたランナとの交流集会を開きました。
 踊りが出るなど、疲れを忘れる雰囲気でした。
 ただし、私の挨拶では、感情がこみあげ、涙が止まらず、言葉になりませんでした。挨拶で涙が出たのは、母親の葬儀以来のことで、どうしようもありません。
 こういうことは直ぐ伝わるようです。
 そのと、たまたま居なかった人から「泣いたの、だって!」といわれ、びっくりしました。
 食事に移ろうとするとき、
幼稚園に泊まる予定が広島市職員会館に変更されました。関東勢への配慮でした。
 ありがたく受けとめ、それならばと大学生協の店舗を仕切る大野さんの提案で、彼が仕切る手作りの「ご苦労さんパーティ」を開くことになりました。
 手分けしての買い出しや、大野さんが刺身も切る手際よさです。
 寝食を共にしてきた関東勢11人のうち、米長さん、カメラマンの伊藤さん、私の3人以外は広島までで終わりです。
 みんなで一緒に長崎まで行きたい気持ちを抑えながら、ここまで来た苦楽を語りあいました。
 リーダー役の藤本さん(神奈川)、元気な大野さん(神奈川)、佐藤さん(神奈川)、今野さん(神奈川)、車の運転とランナーの2役の小柳さん(神奈川)、毎日の走りを楽しく盛り上げ「座長」と呼ばれた大賀さん(群馬)、紅一点で「天女」と呼ばれ塚本さん(東京)、走友会「ポポロ」の斎藤さん(東京)とお別れです。
 私は、「平和遺族会」と書いたTシャッツにサインをもらい、それを着て長崎へ走ることにしました。
copyright(c) takeda akihiko all rights reserved