反核平和マラソン(6)

被爆50周年記念・反核平和マラソン

東京~長崎1500㌔ (#06)8月02日(水)

京都→明石(110㎞)

鴨川に架かる五条大橋を渡る
=1995/8/02、京都市
大阪府庁の歓迎式=1995/8/02、大阪市
明石市役所での出迎え=1995/8/02
明石市役所での歓迎太鼓=1995/8/01
  震災地 兵庫を走る

 朝食のとき、女性たちは「清水寺を見てきた」と話していました。泊まった宿(京都市健保保養所きよみず)の近くにあったそうです。
 私は疲労が溜まり、宿の位置や付近の名所云々など、調べる余力がありませんでした。
 今日のスタートは、昨日着いた東山五条の西南角からです。スタートして間もなくすると、鴨川に架かる五条大橋を渡りました。牛若丸と弁慶が出会った名所です。
 ここも気に止まらず、渡ってしまいました。
 10時30分、大阪府庁へ着くと、100人を超える人たちが「核兵器廃絶」の横断幕を掲げ、到着を待っていました。歓迎式が開かれ、東京から走ってきたランナーが紹介され、激励を頂きました。
 ランナーの集団が大きくなり、震災地の兵庫県へと向かいました。
 被災地は、どのようになっているのだろうか。バスで移動しながら「神戸市役所は未だですか」と、何度も地元の役員に聞きました。
 間もなく「この先の右側です」といわれ、座席から立ち上がり目をこらしました。
 「アッた!」、と震えました。市役所(2号館8階建)の6階部分が潰れていたのです。聞いていた通りです。その6階が神戸市水道局の中枢部で、8課200人が勤務する場所でした。
 もし、地震が勤務中だったら・・・ 我が身と重ね、震えが止まらず寒くなりました。
 震災で破壊された水道施設の復旧には、横浜市水道局から職員が派遣されました。私も復旧作業に志願しましたが、残念ながら職種が違い採用されませんでした。
 国道2号線沿いの市街地は、倒壊や火災の片付が済んでいるように見えたが、よく見わたすと、青いビニールシートを張った避難所や、倒壊したままの建物も少なくありませんでした。公園などには、テントを張っただけのような所に住む人たちもいました。
 交通規制がありましたが、地本の方の適切な判断で移送バスがスムースに通れ、よかったです。
 夕方、明石市役所に到着すると、和太鼓の演奏で激励され、冷えた缶ビールがふるまわれました。このような歓迎は、初めてのことです。感激しながら咽を潤しました。兵庫県に入った西宮市からサポートしているのは、小売店や小企業を営む方たちが組織する神戸民商(民主商工会)の人たちです。その方たちは、被災者の救援や震災復興の活動しておられ、スポーツを愛好する人たちの「反核平和マラソン」にも温かい心づかいを感じました。
 今日、走る約束のなかった山田さんは、朝に「今日も走る」と話され、兵庫県に入った中継点まで走りました。そのとき「竹さん ここでやめるよ」といわれたので、私は「先生が走られたことで大きな励ましになりました」と申しました。山田さんは、当初の大垣市までの約束を越え、倍以上走ったのです。
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