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被災70年・2024年 3・1ビキニデー (3月1日) |
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ビキニ被災70年から被爆80年へ 非核の日本を 全国キャンペーン |
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行進中には、家から出てきてお辞儀や手を振る人、スマホで写真を撮る人が多々あり、手を振って応えました。被災10年後(1964年)の行進では、1万人が参加したそうです。今日は900人(昨年の1.8倍)でしたが、当時を想像できません。 弘徳院境内の上部にある、久保山愛吉氏の墓碑には、参拝者の列が続き、報道のテレビカメラがまわっていました。被災70年で、報道関係者が多かったです。 午後、静岡市民会館で原水協主催の全体集会が開かれました。 会場の入口ロビーでは、被災直後から始まった、原水爆禁止の署名運動の「署名簿」が展示されました。私は、それを見たいがため、躊躇していた参加を、体調を見極めて一昨日に決断しました。 見始めると、年配の方が展示資料を指さし「これは父が書いたものです」と、話されました。原水爆禁止運動資料集(第1巻)の「陳情請願書」(66p)で、水爆禁止の取り組みを杉並区議会に提出した文面です(1954年4月12日)。起草したのが、杉並区の漁屋「魚健」の菅原健一さん(故人)だと言います。話した方が、魚健の六女の竹内ひで子さん(当時11歳)でした。願ってもない出会いです。 当時の様子を聞きますと、魚は売れなくなり、道ゆく人は店を避けて歩いたそうです。母のトミ子さんは、東京市バス車掌のときに「女検番」(運賃不正所持疑惑を理由の身体検査)廃止運動の体験もあり、身を奮い立たせ、公民館の講演会で署名運動の取り組み訴えや、あっちこっちでビラを配りや署名を広げたそうです。原水爆禁止署名運動発祥地は、杉並区です。今日の集会には、岸本聡子杉並区長からビデオメッセージが寄せられました。 署名は、昨日記したように全国へ一気に広がり、55年8月6日の原水爆禁止世界大会終了時で、3158万3123筆の記録が残っています。 世界で唯一の原爆被爆国の日本は、今だ核兵器禁止条約に参加しません。各国から望まれながら、残念でなりません。米国の干渉があっても、独立国として、主体性を発揮すべきです。集会では、ビキニ被災70年から来年の被爆80年にかけ、日本政府を核兵器禁止条約に参加させるキャンペーンに取り組む決議をしました。日本が核兵器禁止条約に参加すれば、世界の核兵器禁止運動に大きな励ましを与え、日本政府の権威が高まります。たとえ、オブザーバー参加でも、条約6条のヒバクシャの治療や救援等に、日本のノウハウを世界に役立つことができます。70年前の署名運動のように、盛り上げましょう。 |
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