竹田昭彦・日誌(#04)・5月15日(日)  

 
         新企画 アピールコンテスト

 
   好評  コース毎に表彰

 

 
逗子市役所の歓迎集会で市長メッセージを幹部職員(中央)から披露される=2016/5/15  
 
鎌倉八幡宮参道(段葛)を平和行進が練り歩く
=2016/5/15
 
 
JR大船駅西口から見た大船観音像
=2016/5/15
 
 
被爆者の遺言を朗読する被爆二世の女性たち(前列)=2016/5/15、大船観音寺  
 今日は、逗子(ずし)市、鎌倉市の行進へ参加です。実際は、葉山町役場を出発するコースですが、交通の便がよく分からず、次の逗子市から参加です。
 天気は、快晴で少し風がありました。
 10時、逗子市役所へ着き、葉山町からの行進を待ちました。
 10時45分、行進歓迎集会が開かれ、市長からのメッセージを幹部職員から披露されました。
 毎年、逗子市のピースメッセンジャーとして、中学生20人を広島へ派遣していると紹介されました。
 逗子市の行進は、市役所を出て、郊外の米海軍の池子住宅地区(基地)の入り口で終わりました。
 この住宅地区には、低・高層の住宅854戸あり、軍属と家族合わせ3千余人が住んでいます。
 附属施設として、管理事務所、中央公共施設(売店、食堂など)、陸上競技場、野球場、テニスコートなどがあります。日本政府の「思いやり予算」で建設し、米軍に提供しています。
 その一部の陸上競技場、野球場、テニスコートなどは、日本人も利用できますが、日本人は有料です。
 米国人は無料なのに、ビックリです。
 ですから、例えば、米軍沖縄基地の隊員数を縮小してグアムに移すとすれば、グアム基地の増設費を「日本政府が出せ」と要求するのでしょう。
 午後1時15分、JR鎌倉駅前から行進が出発し、鎌倉八幡宮の参道(段葛)の車道を練り歩きました。日曜日で観光客が多く、激励の手を振られたり、写真を撮られました。米国のオバマ大統領が広島に来る報道もあり、核兵器廃絶に向けた大きなアピールになりました。鎌倉の行進は、繁華街をまわって、鎌倉駅近くに戻り終わりました。
 今日、私が参加したコースは、区間により80~110人で5.7km歩きました。
 午後3時40分、JR東海道本線の鎌倉市大船駅西口前にある大船観音寺で「被爆者との懇談会」が開かれました。
 懇談会では、被爆二世の女性3人が、「被爆者からの遺言」集(神奈川県原爆被災者の会発行)の中から3名の手記を朗読しました。一部を紹介します。
 
 「亡き兄からのメッセージ」広島で被爆 西純子

 2歳で被爆した私は死線をくぐり抜け、今迄、何とか生きて来られたのも、兄の守りと、あの状況下で、どんな困難にも立ち向かってくれた母の愛のおかげと感謝しながら、今まで生きてきました。この母が、94歳のときに書き残してくれた手記です。

 「息子(純子さんの兄)が建物疎開の現場(空襲での延焼を防ぐため木造家屋などを壊して空間帯をつくる作業)に出た後、戻らず、9日に探しあてると、後頭部から両耳、両腕、背中の上半身が真っ黒に焦げて、上半身がむけて赤い肉と血と膿で、うつ伏せで呻いて居ました。抱いてやる事もさすってやる事も出来ません。手当の仕方も薬もないのです。翌日は背中に膿がべったり。軍医が、2人の兵隊に両手を引っ張らせて、バターナイフの様な金具で、膿盆に血膿をすりおろすので、息子は泣き叫びます。
 日々身体も弱り、余りの苦しさに自分でも、とても助からないと思うのか、覚悟したのか、『死んでもいいから、思いっきり水をくれ』と拝むように申します。どうしたらよいのか、軍医に相談すると『もう望みもないからあげなさい』とのことで水を飲ませると、私にすがりついて『今、死ぬのは残念だ。僕をもう一度生んでくれ。きっとだよ。頼む』と私の手を握りしめて、泣きながら『みんなをきっと守よ』と誓うように言って」息を引き取りました。昭和20年8月18日のことです」
 
 神奈川県原爆被災者の会は、被爆70年を期に発行した「被爆者からの遺言」の普及を呼びかています。
 連絡先 〒221-0822 横浜市神奈川区西神奈川1-8-13
      電話 045-322-8689

 
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