竹田昭彦・日誌(#02)・5月07日(土)  


東京から神奈川へ引き継ぐ

    多摩川を 東京と神奈川の隊列が渡る


 
東京と神奈川の間に架かる六郷橋を東京の隊列が渡る=2016/5/07  
 
六郷橋を神奈川の隊列が渡る=2016/5/07  
 
国連ジュネーブ会議の報告をする和田征子さん(中央)=2016/5/07、川崎市役所前  
 
日本原水協事務局員の前川史郎さんと息子の “ちひろちゃん” (右側)
=2016/5/07、川崎市役所前
 
 
平和行進青年交流集会で被爆体験を話す中村雄子さん(左)。右がイ・ウンウオさん
=
2016/5/07
 
 今日は、東京都から神奈川県へ引き継ぎです。
 出発は、昨日終了した港区立芝公園ですが、私は都・県境を流れる多摩川沿いの大田区立「宮本台緑地」(神奈川の呼称;六郷土手公園)から参加です。
 午後2時15分、神奈川の出発集会が、東京側の「六郷土手公園」で開かれました。
 集会が終わった3時過ぎ、東京の行進が到着しました。東京の行進は止まらず、その後に神奈川の行進が続きます。多摩川の六郷橋を一緒に渡り、神奈川県川崎市へ入りました。
 そして、川崎市役所前を通り、川崎駅前の繁華街を回った後に、市役所で引き継ぎ集会を開きます。
 引き継ぎを受ける県が、他県(都)で出発集会を開き、一緒に行進して引き継ぐのは全国唯一です。
 1958年の第1回目の行進が、川崎から六郷橋を渡って東京に入ると、1万人の行進になったと言われる歴史が、引き継がれているのでしょう。
 私が初めて平和行進に参加したのは、1962年です。そのときも、六郷橋を渡りました。54年前のことを思いだし、胸が熱くなりました。
 参加者は、東京が300人、神奈川が260人、総勢560人で約5km歩きました。
 午後4時40分、川崎市役所で引き継ぎ集会が開かれました。
 挨拶した被爆者の和田征子さん(被団協事務局次長)は、ジュネーブ国連欧州本部で今月初頭に開かれた「多国間核軍備撤廃交渉の前進」に関するオープン・エンド作業部会に出席した話をされました。
 和田さんは、「生物兵器や化学兵器は禁止条約が締結されたのに、それらをはるかに上回る破壊力の核兵器を禁じるのに、なにをためらう必要があるのでしょうか」、「被爆者は核兵器廃絶条約を結ぶことを、全ての国に求めます」と述べたそうです。
 そして、日本政府が「廃絶条約」ではなく「段階的な核軍縮」を主張し、核の抑止力を擁護するのを批判しました。
 その主張は、米国の核軍事力に追従する立場から、核兵器廃絶の促進に「ブレーキをかける役割」と言われても過言ではありません。
 「段階的な軍縮」論の一つであるCTBT(包括的核実験禁止条約、1996年国連総会採決)は、今だ核保有国の未批准で未発効です。20年経っても、核兵器廃絶に向かう、一歩にもなっていません。
 この作業部会設置は、昨年12月の国連総会で採択(賛成138ヶ国、5大核保有国など反対、日本は棄権)しました。
 なお、作業部会は2月の初会合に続き、今回(5月初頭)と、8月にも開催し、「核兵器のない世界の達成と維持のための具体的で効果的な法的措置、法規定、規範を実質的に論議」して9月に報告書を提出します。
 核兵器廃絶に向けた国連の取り組みが具体化したのは、被爆者をはじめとする日本国民の核兵器廃絶を求める署名運動などの力が、多くの国で「人類を無差別大量に破滅する核兵器を人道上から許さない」と、盛り上がってきた成果です。
 (日本政府は採択に棄権、作業部会に出席、核保有5大国の代弁をする)
 午後5時30分、川崎市内で「平和行進青年交流会」が開かれました。主催は核兵器の廃絶を求めて行動する青年たちの「リング・リング・ゼロ」です。
 行進してきた青年たち約30人が集い、被爆者の中村雄子さん(神奈川県被爆者の会会長)から被爆体験を、国際青年リレー行進者として行進してきた李恩元(イ・ウンウオ)さん(明治大学大学院生)から「アジアの平和のために何かしたい」との思いを聞きました。
 フリートークでは、被爆体験を初めて聞いた感想や、被爆者の短歌の紹介(中村さんから)に応え、即座に詠んだ歌を披露するなど、青年のおう盛なエネルギーに感激しました。
 李さんへの質問では、北朝鮮の核問題や学校での原爆の教え方などが出されました。李さん自身、日本へ留学して朝鮮人の被爆を初めて知ったそうです。そして、核兵器廃絶運動の連帯を強調されました。川崎の引き継ぎ集会後に、青年行進者の交流集会が開かれたのは、初めてだと思います。

 
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