竹田昭彦日誌(#28)6月07日(土)
“平和の志士”龍馬脱藩の道を行く
木造アーチ型の「檮原橋」を渡る宣伝カー=檮原町・檮原川
 今日は、檮原(ゆすはら/梼原)町、津野町、須崎市の行進です。
 須崎市の宿から宣伝カーに乗り、檮原町へ向かう。1時間余りかかって檮原町役場に着きました。「檮」とは、初めて見る字です。どんの木でしょうか。
 高知市から檮原町を通り、愛媛県へ抜ける道(檮原街道)は、「龍馬・志士脱藩の道」と呼ばれています。そり立つ山並みと、深い渓谷から見て、昔は相当に厳しい道のりだったと思います。今は、トンネルが掘られ、自動車道に様変わりしました。なお、坂本竜馬が暗殺されたのは、国家のあり方が、天皇制ではなく、共和制の考えがあったからどと、地元の方に聞きました。
 檮原町役場で、参加者の見えるのを待ちました。誰も見えません。檮原町は県境で、生活圏が愛媛県に入るそうです。
 高知市の方から、行進参加者が見えるのは、遠くて難しいのでしょう。歩く人が1人でも、行進をやめることはできません。それなら、出来るだけ目立つようにと思い、宣伝カーの前面に横断幕を取り付け、側面と後面にペナントを飾りました。合田さん(高知県高教組役員)が運転する宣伝カーの先導で、私が「平和遺族会」の桃太郎旗を持って歩きました。行き交う人に「平和行進でーす」と手を振ると、皆さんから、手が振られたり、うなずかれたり、応えてもらいました。
行進をとめてマイクで訴える合田さん(右)=津野町
 大きな元気をもらった2人は、気分が高まり、その後、宣伝カーで移動しながら、集落のある5ヶ所で車を止め、「核兵器をなくしましょう」とマイクで訴えをしました。そこでも、聞いている人があり、出てくる人があり、励ましをもらいました。平和行進は、参加人数の多少にかかわらず、続けることが大事だと思いました。
 次の津野町では、地元の学校の先生が1人加わり、3人となりました。ここでも、励ましをもらいました。 私たちは、“平和の志士”になった気分です。
須崎市を平和行進
 須崎市では8人になりました。行進終了間際に雨降りとなったが、意気揚々と歩きました。
 なお、今日(7日)と明日(8日)は、「第54回原水爆禁止四国大会INとくしま」が開かれます(第1回目は1955年4月、香川県・琴平町)。これは、四国4県が持ち回りで、毎年開いています。各県が集まったブロック単位の大会は、全国でも四国だけだと思います。私も、参加したかったのですが、平和行進と並行実施でした。
 高知県へ来てから、気がついたことに、山々の木々の緑が濃く、木の葉に躍動感があることです。太平洋の黒潮に乗った高温多湿な南風は、四国山脈に阻まれ、高知に多量の雨をもたらします。植物にとっては、何よりの御ちそうです。高知県には、日本で育つ植物の3分の1が分布するそうです。世界的に著名な植物学者、牧野富太郎氏は、昨日訪問した佐川町の出身です。
 今日の参加者は、宣伝カーの運転手を含め、2人から8人で4.5q歩きました。