反核平和マラソン(1)

被爆50周年記念・反核平和マラソン

東京~長崎1500㌔ (#01)7月28日(金)

東京→横浜(50㎞)

フォークシンガーの高石ともやさんが激励
=1995/7/28、東京夢の島第五福竜丸保存館前
夢の島第5福竜丸保存館前をスタート
=1995/7/28、東京都江東区
横浜市を走る(左から2人目竹田)=1995/7/28
横浜市役所の歓迎式で挨拶する竹田
=1995/7/28、横浜市
 被爆50周年(1995年)のとき、東京・長崎1500㎞を走る「反核平和マラソン」に参加しました。
 主催は、全労連、自治労連、国公労連、全教、新体連(現新日本スポーツ連盟)などつくる実行委員会で、7月28日に東京夢の島をスタートして、8月8日に長崎平和公園にゴールします。
 ゴール後は、翌9日の原水爆禁止世界大会・長崎総会々場へと走り、壇上で成果の報告をしました。
 そのときの記録と今日の提起をします。
               (2019年4月)

  高石ともやさんが激励

 1995年7月28日(金)
 午後1時30分、東京夢の島の第五福竜丸展示館前で「バーン!」と、館長の号砲で100余人のランナーがスタートしました。
 「ぶつかるぞー」「急がないでー」の声が飛び交い、テレビカメラが追いかけ、これから始まるお祭りのように、たいへん賑やかでした。
 スタートに先立つ開会式では、フォークシンガーの高石ともやさんが、「マラソンを走れる強い人は、自己だけにとらわれず弱い人に手を差しのべることも大切です。日本にも、ランナーのなすべきことの元年がやってきた」と激励され、2週間前に作詞作曲した「ランニングを称える歌」を熱唱しました。
 そして、10㎞を走りました。
 高石さんは、歌手でありながら、ウルトラマラソンの第一人者です。参加された驚きと、おおきな励ましをもらいました。
 このマラソンはリレー方式で、5㎞ほどを1区間にして中継所を設け、タスキを継ぎます。
 その日に走る中心メンバーは、A、Bの2班に分けられ、各班が連続数区間ずつリレーします。
 A班が走る受け持ち区間のときは、B班は貸し切りバス(又はマイクロバス)で、A班から引き継ぐ中継所へ先行します。
 この繰り返しが基本です。その中で、1区間だけ走る人、数区間連続で走る人、飛び飛びの区間を走る人など、多様な参加が可能です。
 具体的には、通過する府県の実行委員会が行い、中継所の決定や、参加者の走る区間を決めてあります。
 参加者の少ない区間で、も最低2人が走ります。
1日目の私はB班で、夢の島公園を2㎞ほど走った後、神奈川県の川崎市役所から終点の横浜市役所まで走りました。
 市役所では、歓迎式が開かれました。私の挨拶では、戦没者遺族の反戦・反核の思いと、長崎まで走る決意を述べました
 夜は中華街へ行き、70余人で夕食会を開きました。そこで、私は酒を飲むのをためらいました。
 1か月前から酒を断ち、走るトレーニングと長崎まで走りぬく心がまえを高めていたからです。そして、酒は飲まないで行こうと思っていました。
 みなさんの状況を見ていると、お祭りのような雰囲気で、酒が好きなのに飲まないのも、独り相撲だと考え直し、飲むことにしました。炎天下を走ったので、みんながよく飲みよく食べ、店の冷やしたビールが足りなくなったそうです。
copyright(c) takeda akihiko all rights reserved