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竹田昭彦・日誌(#08)・8月05日(土) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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広島平和資料館見学 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イ・ジュンナムさん 感動 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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天気は、相変わらずの炎天でした。 7時45分、イ・ジュンナムさんと竹田が折り鶴を持って宿を出ました。 徒歩で広島平和記念公園へ行き、原爆死没者慰霊碑、韓国人原爆犠牲者慰霊碑、原爆ドーム、原爆の子の像などを巡拝しました。 韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、原爆の子の像の後方面にあります。 「慰霊碑の由来」には「広島には約十万人の韓国人が軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた」と刻まれています。 奪われた人命の数には、北朝鮮の人が含まれていません。 正確な、朝鮮半島の方々の被爆死者数は不明です。一般的には、その年になくなった方は、約3万5千人といわれています。 神奈川ウオーキングクラブと富矢伸史さんから託された折り鶴は、原爆の子の像のところにある指定場所に掲げました(時間が早かったので、指定ボックスが準備されておらず、ビニールシートをめくって掛けた)。 参照 takeda-a.net/07-8-04.html 折り鶴を掲げるところに、メッセージを書いて入れる箱があり、二人は書いていれました。写真上から4段目の、イ・ジュンナムさんのメッセージの和訳は、次の通りです。 「日本の原子爆弾被爆により亡くなった韓国の家族や日本の人々を偲び(追悼し)、折り鶴千羽を東京から持ってきました。私たちの大切な(尊い、大事な、いとしい)心を受け取ってください。 愛していますよ 忘れません。李重男より」(佐藤好行訳) その後、平和記念資料館を見学しました。イ・ジュンナムさんは熱心に見学され、1時間40分を要しました。途中で「ダメだ!」と言い、椅子に休みながら呼吸を整えて(延べ3回休む)の見学でした。原爆の恐ろしさを良く学ばれたと思います。その様子に感動しました。 見学が終わったところに、感想を書くノートがあり、写真上から5段目の文を一気に書かれました。 昼過ぎ、広島駅新幹線ホームでイ・ジュンナムさんの帰国を見送りました。 その後、私は国際会議に参加しました。活発な、ユーモアもある報告、提起、質疑、回答などの話し合いで、笑いがあり堅苦しくなかったです。 最後に、国際会議宣言を採択して終わりました。 なお、宣言を起草するのに当たり、ロシアが起こしたウクライナ侵略戦争の解決方法については、いろいろな意見があり、熱心に討議されたとの報告がありました。 |
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