竹田昭彦・日誌(#09)・6月11日(月)    
沖縄から鹿児島へ移動

米軍基地の普天間飛行場=2018/06/07、宜野湾市・嘉数公園展望台から撮影
 今日は、行進がなく、沖縄県の那覇市から鹿児島県の鹿児島市へ空路の移動です。
 天気は、朝に沖縄を出るときは曇で、昼前に鹿児島へ着くと雨でした。
 沖縄行進の7日間は、雨に降られずよかったですが、鹿児島の行進は、雨がありそうです。
屈辱の沖縄の米軍基地
 沖縄に米軍基地が多い経緯を、沖縄県が作成した「沖縄から伝えたい。米軍基地の話。」を参考に書いてみました。

 ① 戦後すぐの1945年(昭和20年)から1949年(昭和24年)までの5年近く、本土では戦後の復興政策が図られる中、沖縄はほとんど放置状態で「忘れられた島」といわれました。
 米軍と日本政府間の調整に時間がかかり、明確な統治政策が図られなかったからです。

 ② 1949年(昭和24年)5月に米国は沖縄の分離統治を決め、1950年(昭和25年)2月にGHQが沖縄に恒久的基地の建設を発表し、沖縄の分離統治を決定しました。

 ③ 1952年(昭和27年)のサンフランシスコ」講和条約により、日本は独立国としての主権を回復しましたが、その代償として、沖縄が日本本土から分離され、米国の施政権下に置かれました。
 沖縄には、日本国憲法の適用もなく、国会議員を送ることもできませんでした。

 ④ 1972年(昭和47年)に本土復帰した沖縄は、27年間もの間、日本政府から十分な支援を受けることができず、道路、港湾、学校、病院、住宅など、社会資本のあらゆるものが不足していた状況でした。
 一方、経済においても、米国に有利になるよう強いドルの政策がとられ、実態に合わない強いドルの影響により、製造業が育たず、基地依存の輸入型経済環境になってしまいました。
宜野湾市役所正面玄関の上部に掲げた “普天間基地早期返還!” の看板=2018/06/07、撮影
 ① 1945年(昭和20年)に上陸した米軍は、住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い、次々と新しい基地を建設してきました。
 太平洋戦後終結後も、朝鮮戦争の勃発など国際情勢の変化に伴い、基地が必要になると、武装兵らによる「銃剣とブルドーザ」で住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶし、新たな基地を造ってきました。
 
 ② 普天間基地の場所は、そもそも、沖縄本島の中心部で、役場、国民学校、郵便局、病院、旅館、雑貨店、いくつもの集落などと、沖縄県庁中頭郡地方事務所、県立農業試験場などの官公庁などがあった所です。
 
 ③ 収容所から戻ってきた住民は、自分の故郷に帰りたくても帰れず、基地の周辺に住むしかなかったのです。
 それで、市街地の中心に基地があるような、現状になったのです。
 
 ④ 米国は、普天間基地を返す替わりに、更に強固な基地を日本政府と一体となってすすめているのが、名護市の新辺野古基地です。
 沖縄県民がオール沖縄で、普天間基地の無条件返還、辺野古に新基地を造らせないと、強い意思で運動をすすめるのは、歴史から見ても当然だと思います。

 
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