竹田昭彦日誌(#79)7月23日(土)
〈 “原爆の灯”ともる 国分寺市 〉
 今日は、立川市、国立市の行進、国分寺市の行進と市役所訪問、小金井市の行進です。
 朝7時、豊島区の山手線・大塚駅前の宿を出て、電車とバスを乗り継ぎ、立川市の砂川学習館へ8時40分に着きました。
 東京の宿も、山梨の様に、昨夜から毎日同じになり、電車で「出勤」です。
 9時15分、砂川学習館前の駐車場で、北多摩地区の出発式が開かれました。参加者は、総勢100人を超えていました。 ここから、二つに別れてスタートします。北多摩地区自治体の北側を通るコースと、南側を通るコースです。
 宣伝カーは2台ありましたが、平和行進の文字が1字も無かったので、宣伝カーのボンネットに急いで手持ちの汎用「リレー横断幕」取り付けました。
 南側を通るコースが、山梨県から入ってきた幹線コースになっており、私は南側コースに参加しました。  
砂川基地拡張反対闘争勝利記念「平和之礎」(左の石碑)前を行進=立川市砂川1丁目
 9時30分、行進がスタートして5分ほど行くと、「平和之礎」の碑がありました。
 1955年、米軍立川基地拡張の計画を知った地元住民が、反対同盟を結成し “戦争は過ち” “戦争を繰り返すな” “私たちの生活に軍事基地はいらない” (碑文より)と、平和と人間尊重を訴え続け、幾多の困難と犠牲を伴いながら、米軍基地基地そのものを返還させた勝利の記念碑です。
 この運動は、地方自治の確立と、住民運動の草分けにもなったと言われます。
国分寺市役所の歓迎集会で挨拶する筆者、後ろに「平和の灯」がともる=国分寺市役所前
 国分寺市役所訪問では、市役所玄関前に「平和の灯」が灯されてありました。広島市の「平和の灯」から分火したものです。
 「平和の灯」塔(1990年建立)には、平和の灯の由来と、国分寺市非核平和都市宣言(1984年制定)文が刻まれ、長崎市から寄贈された原爆瓦も埋め込まれてあります。全国でも、「平和の灯」を灯す自治体は希少です。
 行進が終わった帰路、「通し行進者」のタスキを掛けたまま、電車に乗り新宿駅で降りたら、若いご婦人から声をかけられ、「富山の行進のときにお会いしました」(2003年)と話され、握手を求められました。ビックリするやら、嬉しいやらでした。
 今日は、区間により50〜60〜40人で21.5q歩きました。