竹田昭彦日誌(#82)8月03日(日)
海田町長さんから折鶴のレイを頂く
海田町長さん(左)から折鶴のレイを掛けて頂く=海田町役場
 今日は、坂町、広島市、海田町、府中町の行進です。
 広島に落とされた原爆の被爆者が、助けを求めて逃れた道がいくつかあります。その一つに、広島市から府中町、船越町(現広島市安芸区)、海田町、矢野町(現広島市安芸区)、坂町、呉市方面があります。
 今日の平和行進は、その道を逆に、坂町から広島市へ向かって進みます。連日暑さが続きますが、広島に原爆を落とされた日も暑かったそうです。原爆の爆発温度は数千度になります。それを直接、間接に受けた人たちの苦しみは、想像を絶します。暑さではなく、超高温度の熱風で焼かれたのです。平和行進50周年の歩みは、雨の日も、風の日も、暑い日も、休まず続けてきました。行進者たちが口にする、「暑くてもがんばるぞ!」は、気温の暑さだけではない、原爆を製造し、使用した人間への怒りです。
 海田町訪問では、通し行進者4人が、町長さんと議長さんから折鶴で作ったレイを首に掛けていただきました。オリンピックなら、金メダルです。何よりの励みでした。
船越峠を平和行進=府中町
 船越町と府中町の境が、船越峠です。逃れて来た人たちは、船越峠あたりで夕暮れになったそうです。上り1q、下り1qの道のりです。爆心地からの直線距離は、約8qです。広島駅付近から線路・陸路を伝わり、こちら方面へ逃れた人は約4万5千人と見られています。多くの人は、途中で息絶えたのです。
被爆者を収容した府中国民学校(現府中小学校)脇を平和行進=府中町
 府中町役場の近くにある府中小学校(当時は府中国民学校)は、被爆者が収容された場所です。その脇道を行進しました。
 元広島の国鉄職員で、府中国民学校で収容作業をした平末豊さん(現岡山市在住)の手記、「原爆体験と今を語る」の1部を紹介します。
 「負傷者を二階に収容し、地方から救援活動に来た、医師、看護婦も医薬品がないので、火傷した箇所に油を塗り、負傷を見守るしか方法がなく、水を欲しがると死が近付く、楽にしてやらなければと、見回りの医師と看護婦が番号札を顔の上に置く。そして番号札を見て、二階の窓から下で待ち受けている、暁部隊(広島市宇品)の軍用『トラック』に一、二、三で投げ降ろす。『トラック』に山積みされた死体は学校の側を流れる川に数メートル間隔で、掘られた穴へ山のようにうず高く積まれ、重油を掛けて焼かれる、これが繰り返し行われる、地獄と言えばそれまでだが市内にとどまらず郊外の空き地でも行われていたと思う。次々と運ばれてくる負傷者が多く収容しきれない。道端で、家の下敷きになて、助けて貰えず亡くなった人のことを思えば、この人達はまだ幸せであったかもしれない」と、書かれています。
 現在、焼かれた場所に慰霊碑が建立されています。その慰霊碑前が、今日の行進集結場所でした。歓迎の挨拶をした府中町長さんは、当時7歳で「油で焼かれる黒煙を見た、2度と繰り返してはならない」と、力説されました。
 今日の行進参加者は、区間により50〜80人で12.5q歩きました。日曜日にも関わらず、坂町長さん、海田町長さんと副議長さん、広島市安芸区役所の区長さん、府中町長さんからは、歓迎と激励の挨拶をいただきました。