竹田昭彦日誌(#01)5月06日(日)
〈「第5福竜丸展示館」を800人で出発〉
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東京・夢の島「第5福竜丸展示館」前の出発式で挨拶する竹田(左から2人目) |
5月6日の午後、2007年原水爆禁止国民平和大行進の「東京→広島コース」は、東京都江東区・夢の島の「第5福竜丸展示館」前から、800人でスタートしました。隊列の第1グループは、サウンドカーと青年パレードです。私は、第2グループの先頭でリレー横断幕を持ちました。
今日の京浜地域は終日の雨降りで、傘をさす人や、カッパを着ての行進です。私は、カッパの上着だけを着たので、ズボンがびしょ濡れになりました。赤信号などで止まるたびに冷え込み、寒かったです。2月の東京マラソンのときも雨で寒かったが、今日の行進も雨にやられました。
だがしかし、雨天に負けず、沿道の歩行者や行き交う車窓の人たちに、「核兵器をなくせ!」「憲法9条を守れ!」と訴えました。その人たちから、手を振って激励されたときは、たいへん嬉しかったです。
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東京・夢の島「第5福竜丸展示館」前を出発した平和行進(左が竹田) |
この核兵器廃絶を訴える平和行進は、1958年からはじまり、今年が50回目です。私は、半世紀にわたる平和行進の節目の年に、参加できることを光栄に思っています。8月4日に広島市の平和公園へ、無事ゴールできるよう頑張ります。
原水爆禁止運動の平和行進がはじまった動機は、夢の島に展示されている「第5福竜丸」の英雄的な出来事にあります。1954年3月1日、太平洋のビキニ環礁で米国が行った水爆実験のとき、その近辺でマグロを獲っていた静岡県焼津港の「第5福竜丸」乗組員たちが、異様な爆発の様子を間近に見ました。そして被爆し、米国の軍事機密を知った乗組員たちは、米軍に見つかり撃沈されないように注意しながら、焼津へ急いで戻りました。そして、焼津から水爆実験の事実と恐怖が世界中に発信されました。日本では、放射能に汚染されたマグロは食べられないと、大パニックになりました。
その翌1955年に第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、第4回大会(1958年)のとき、広島から東京へ向けた第1回平和行進がスタートしたのです。
今日のスタートに先立ち、「第5福竜丸」を見学しました。大きな木造船の船首を見上げながら、どっしりと構えた福竜丸は、どんな困難があっても、核兵器も戦争もない地球を願い、立ち向かって行く勇姿に見えました。
今日のコースは、江東区の夢の島から明治通り、永代橋、中央区の東京駅八重洲口前、銀座、数寄屋橋、港区の新橋を通り、港区役所までの12.2qでした。
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