竹田昭彦・日誌(#36)・7月08日(日)    
原爆の火の原点
星野村を訪問

平和の塔と筆者(後部は原爆死没者慰霊の碑)
=2018/07/08、八女市星野村・星のふるさと公園
平和の塔で燃える原爆の火
=2018/07/08
三井三池炭鉱宮浦坑中国人殉難者慰霊碑
=2018/07/08、大牟田市宮浦石炭記念公園
 今日は、行進のない日です。
 天気は、曇りで、一時小雨が降りました。
 11時、北原俊二大牟田市原水協事務局長と、大牟田市の宿を出ました。
 昨日の打合せでは、大牟田市内の世界文化遺産などを巡ることでしたが、変更されており、八女市の星野村にある「原爆の火」を訪ねることになりました。
 12時55分、星野村の「星のふるさと公園」に着きました。宿を車で出てから、みやま市を通り、2時間ほどかかったことになります。
 星野村の東となりは、大分県の日田市ですから、海岸線から奥地に入り、遠いはずです
 現在、星野村は八女市と合併して八女市ですが、住所表記は「星野村」の名称が存続され、八女市星野村となっています。
 原爆の火は、星野村・星のふるさと公園の「平和の広場」にありました。長年、見たい、見たい、と思っていたユメが実現し、胸が躍りました。
 昨日、北原さんへ「平和行進とっておき十話」を差し上げたことから、目を通され、実現したようです。
 星野村の原爆の火は、日本の各地や、海外に分火された原爆の火の原点です。
 由来は、公園に建立された「平和の塔」に刻まれた文より紹介します。
 1945年8月6日午前8時15分、広島市に原爆が投下され、当時の広島市革屋町25金正堂書店跡壕より山本達雄氏が未だ息吹く火を故郷、星野村へ持ち帰る。同氏が犠牲者への供養の灯、世界平和の道しるべの火と念じ密かに保持されていたこの火を、星野村が引き継ぎ現在に至る。被爆50周年を迎えた今日、世界の恒久平和と原爆犠牲者の冥福を祈念しつつ、ここに平和の塔を建立する
 
 1995年3月星野村
 塔の後には、原爆死没者慰霊の碑があります。

 星野村からの帰路、大牟田市の世界文化遺産になった明治日本の産業革命「三池炭鉱関連資産」を巡りました。
 その一つ、宮浦石炭公園の一角に「三井三池炭鉱宮浦坑中国人殉難者慰霊碑」(建立2013年7月7日、日本中国友好協会福岡県連合会、他)がありました。
 碑文には、「去る世界大戦の末期において、日本政府は国内の労働不足を補うために、中国人捕虜や住民を強制的に連行しました」とあり、その数約4万名で、7千人が過酷な労働や、事故、病気などで無念の死を遂げました。三井三池炭鉱には、全体で2481名が連行され、635名の尊い命が奪われました。
 宮浦坑では、574名のうち44名が亡くなりました。その44名の氏名、出身地、死亡年月日、享年が碑に刻まれていました。
 宿へ戻ったのは、午後の7時を過ぎていました。北原さんの御配慮に、感謝、感謝です。

 
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